所在地:東京都港区赤坂5-3-2 赤坂サカス内
JがSHIBUYA-AXでの5DAYS公演という大胆かつ無謀な試みを初めて実践したのは、今から12年前にあたる2002年夏のこと。すでにコア・ファン以外からも「とにかくJは、ライヴが凄まじいらしい」といった認識を獲得し始めていた頃のことだ。当時発売されたばかりだったライヴ映像作品、『FILM THE BLOOD MUZIK 80min.RIOT』もそうした傾向に拍車をかけるものだったが、この『5 CRAZY 5』(当然ながら“go crazy go”と読む)と銘打たれた灼熱の五夜公演もまた、そうした世の認知をいっそう広げることになったといえる。
その開催に先立ってのインタビューのなかで、J自身は次のように語っている。
「自分たちのために何かを作っていく、自分たちのために何かを守っていくんだってこと。そういうことが現実になっていくんじゃないかって気がする。たとえば目の前にブームみたいなものがあったとき、そこに乗っかれば話は早いし簡単かもしれないけど、それは自分たちで作ったものじゃないでしょ? 新たな波を起こす瞬間というのを俺たちはまだまだ味わえるはずだし、いつだってそれを作れるはず。そこがロックのひとつの醍醐味だとも思うんだよね」
そうした熱い思いを抱えながらも、やはり初の試みであるだけに、J自身のなかにも不確かな部分というのがありはした。しかし「何が起こるかわからない」ことを認めつつも、「だからこそ自分でも楽しみなんだけど」と笑顔で言えてしまうのがこの男なのだ。
この年、Jとステージを共にしたのはFULLGAIN(7月8日)、DICE(9日)、Youjeen(10日)、そしてPOLYSICS(11日)。対バン形式でのライヴを四夜重ねたのちに、第五夜をワンマン公演で締め括るという儀式の形式も、この時点で生まれていた。FULLGAINとDICE、Youjeenが、2001年にJ自身とZilchの共謀により開催された『FIRE WIRE TOUR 2001-BURN SEVEN CITIES BURN-』に登場していたこと、そしてYoujeenがJの全面バックアップのもとでデビューしたことをファンの多くは記憶していることだろう。そうした意味においては、この最初の五夜公演は、どこか“Jファミリー”的な匂いのする成り立ちだったともいえるが、明らかに活動フィールドの異なるPOLYSICSの起用などは、あらかじめこの場がジャンル無用のものであることを象徴していた。この『5 GRAZY 5』こそが、のちに多くのアーティストたちが企画/実践してきた異種格闘技的イベントの先駆けでもあったと言っていいはずだ。
この五夜公演のチケットは発売当日に完売となり、ファンの期待度がどれほどの高まりを見せていたかを裏付けていた。そして最後の夜のステージ終了後、Jは「自分がこれまで経験したことのない熱を味わったし、これから目指していくべき場所が確実に見えた。早くそこに向かいたい」と語っている。そう、『5 CRAZY 5』は、2002年のロック・シーンにとって画期的な事件であったと同時に、Jがさらなる理想を求めていくうえでの記念すべき第一歩だったのである。
増田勇一
SHIBUYA-AXでの5DAYSの機会がふたたび訪れたのは、2004年9月のこと。Jはその年の5月にアルバム『RED ROOM』を発表しているが、それ以前の作品とは一線を画する作風で彼の世界観の奥深さを体現していたこの作品が完成に至る頃には、すでに彼自身の脳内には“2年ぶりの無謀な試み”に向けての青写真があったという。同年夏、彼は次のように語っている。
「観たい人全員が観に来られるような環境を作りたかったし、俺がカッコいいなと思う若手のバンドたちをみんなに紹介できる機会にもなる。いろんな意味を持つライヴであると同時に当然ながら真剣勝負でもあるし、5日間通して観てもらっても絶対に飽きさせないものにできる自信があるから」
実はこのアルバム発表に伴うツアー中、Jは、7月17日の富山公演の際に声帯が腫れて声が出なくなるというアクシデントに見舞われている。が、それでも安全な道を選ぼうとはしないのが彼であり、実際、5DAYSに向かおうとする決意にも揺らぎはなかった。「それでもフルショットで行くしかない。そういうギリギリのところでこの5日間をぶち抜くことができたら、また新しい何かが見えるのかなと思う」という発言は、いかにも彼らしいとしか言いようがない。
9月19日から23日にかけて行なわれたこの年の五夜公演にも、さまざまなゲストが招かれた。第一回からの継続出演となったDICE、J自身が「ジャンルは違うかもしれないけど、すごくいいメロディを持ってるし、そこに渦巻いてる熱については同じ匂いを感じる」と語っていたLUNKHEAD、さらには「異常だよね、あの若さで」というJなりの賛辞を引き出していたFUZZY CONTROL、そしてYoujeen率いるCHERRY FILTER。韓国で活躍する彼女が自らのホームであるバンドとともに登場を果たしたのだった。そして最終日は、Jのワンマン公演。彼は毎晩、演奏メニューを変えながら、自らの音楽の多面性を見せつけることに成功していた。公演終了後のインタビューには、次のような発言もみられる。
「ハードでヘヴィなバンドだと解釈されてると思うけど、そこは一面に過ぎないというか、そこに行き着くまでのいろんな要素もある。前回から2年を経て、アルバムも2枚出して、より奥に進んでいったところで見られる景色を楽しめるようになったわけで。そこで単なる色分けじゃない次元で、しかも古いのも新しいのも関係ないところで、今の俺の世界ってものをよりバランスよく披露できたと思う」
Jはゲストたちからも刺激をもらい、この5DAYSを終えた翌々日にはレコーディングを開始。そこで録られたうちの1曲である「MY WAY」は、同年12月22日に発売されたベスト・アルバム『Blast List-the best of-』に収録されている。二度目の5DAYSとベスト・アルバム発表をもって、ひとつの節目を超えようとしていたJ。しかしながら、彼にはその場に立ち止まるつもりなどあるはずもなかった。彼は、次のように語っている。
「俺が走れて、いろんな可能性をみんなに提示することができるなんなら、それはそれで面白いと思う。そういう意味では、俺の身体が持つかぎりは10日間だろうが20日間だろうが走ればいいのかな、と(笑)。とりあえず俺は、走れるうちは走るからさ。それを利用できると思うやつは利用すればいいと思う。そしてまた、新しい波を起こすんだよ」
前回の開催から丸3年を経た2007年10月、通算3度目となるSHIBUYA-AXでの5DAYS公演が巡ってきた。この年にスペシャル・ゲストとして登場したのはSNAIL RAMP(10月3日)、MERRY(4日)、9mm Parabellum Bullet(5日)、そしてJが当時立ち上げたレーベル、INFERNOから作品をリリースしていたサスライメイカーとロットングラフティー(6日)という顔ぶれ。いずれもゲストというよりは刺客。Jと真っ向からの直球勝負に挑み、まさに火に油を注いでいた。蛇足を承知で書き添えておくならば、5日目のファイナルは慣例通りJ自身のワンマン公演として開催されている。
この年のJのライヴ・パフォーマンスの特徴は、各々の夜に『PYRO Day』、『BLOOD Day』、『Unstoppable Day』、『RED Day』、そして『GLARING Day』といった具合に、当時の最新作にあたる『URGE』に至るまでに発表されてきたアルバムの表題にちなんだタイトルが掲げられていたことだろう。改めて説明するまでもなく、各公演においてJは、各々のアルバムを主体とするセットリストによるライヴ・パフォーマンスを披露し、過去すべての作品が『URGE』における自分自身に繋がっていることを証明してみせた。この5夜公演自体のタイトルに掲げられた『ALL of URGE』が意味するのも、まさにそうした事実だったのだ。彼は、この5日間を経たのちのインタビューのなかで、次のように語っている。
「たとえば初日の『PYRO Day』の場合、実は今やっていることとすごく近しい部分が『PYROMANIA』当時にあったんじゃないかって、自分でもライヴをやりながら感じてた。あのアルバムを軸にしつつ、最新作の『URGE』からの曲をどこに置いても違和感がないんだよね。むしろ逆に、『URGE』の曲たちをいっそう浮き彫りにしてくれたというか、際立たせてくれたというか。そういう意味ではなんか、完全にループしてるなと思えて。だからなんか、嬉しくなっちゃうんですよ。かつての自分がソロで最初に産み落としたアルバムが、今でもちゃんと自分の名刺として通用するものであり続けてるってことだし。スタート地点というか走り始めたポイントとして、すごく誇らしいアルバムだなと改めて思えましたね」
もちろんJが感慨をおぼえたのは『PYRO Day』についてだけではない。他の4夜にも、それぞれ再確認させられたこと、発見させられたことというのが彼にはあった。この2007年は、彼にとってソロ・デビュー10周年の記念すべき年でもあったわけだが、その節目にこうして5日間でのべ75曲を演奏しながらディケイドを総括し、“ブレを知らない自分”を実感できたことは、彼にとって大きな財産になったに違いない。
また、この10周年を象徴するものとしては、彼の歩んできた紆余曲折とある種の決意をを感じさせるバラード曲、「walk along」のシングル(チェコ・フィルハーモニー管弦楽団が参加)があるが、この年の末には、常にライヴ・ステージを主戦場としてきた彼にとって初めてのライヴ・アルバム、『THE LIVE-ALL of URGE』もリリースされている。まさにライヴ・ベストともいうべき内容のこの作品もまた、この男の信念の揺るぎなさを爆音で証明している。まだこの音源に触れていない人は今のうちに手に入れておくべきだろうし、Jのライヴを体験したことのない誰かに、彼がどんな人物であるかを伝えるうえでは、この作品こそが最適といえるかもしれない。
常に“14”という数字を、自らを象徴するものとして提示してきたJにとって、2011年はソロ始動14周年という記念すべき年だった。が、それが単なるお祭り騒ぎのアニヴァーサリー・イヤーに終わったわけではないことは言うまでもない。
まずは1月、あの『PYROMANIA』が生まれた聖地ともいうべきロサンゼルスで録られたセルフ・カヴァー集、その名も『FOURTEEN』がリリースされている。さらに、2010年には『REBOOT』をキーワードとするLUNA SEAとしての活動も展開されていたわけだが、この年の3月にはインディーズ1stアルバムの『LUNA SEA』(1991年)の再レコーディング盤が登場。また、この2011年3月には東日本大震災が発生しているわけだが、ちょうどその時期に上演されていたのが、彼自身も出演していたミュージカル、『ピンクスパイダー』だった(ちょうどこの年はhideの13回忌でもあった)。Jがhideに対して抱き続けてきた敬愛の念の深さについてはこの場で述べるまでもないはずだが、こうしたさまざまな出来事のあった2011年は、まさに彼にとって、原点を見つめ直しながら自身を更新していくかのような節目の年となったといえるはずだ。
そして、そんなスペシャルな年をさらに特別なものにしていたのが、『Set FIRE Get HIGHER-FIER HIGHER 2011-』と銘打ちながら実践された、通算四度目となるSHIBUYA-AXでの5 DAYS公演だった。「どうやってこの顔ぶれを集めたんだ?」と言いたくなるようなキャスティングにもさらに拍車がかかり、あまりにも濃すぎる顔ぶれが名を連ねることになったが、当のJ自身はむしろ平然と「自分の目と耳で、今、本当に日本のロック・シーンを揺るがしてると思えるバンド、これからもっともっとぶっ飛んだ存在になるはずだと思えるバンドばかりを選んだ」と語っていた。
出演ラインナップについて振り返っておくと、まず公演初日の5月5日にJとステージを共にしたのはMASS OF THE FERMENTING DREGS、Northern 19に石鹸屋。6日にはNothing’s Curved In StoneとThe Telephones、7日にはavengers in sci-fiとFear,and Loathing in Las Vegasと女王蜂が登場し、さらに8日にはa flood of circleとPay money To my Pain、さらにはTHE HIATUSが顔を揃えた。もちろん慣例通り、最終夜の5月9日はJのワンマン・ライヴである。
連夜のライヴの熱さ、火に油を注ぎ続けるようなエスカレート具合のすごさについては改めて述べるまでもないが、筆者にはいまだに忘れられない光景がある。2階席の柵から身を乗り出し、少年のような眼差しをステージに向けながら騒ぎまくっていたPay money To my PainのKの姿だ。彼はこの際の共演を経たのち、「みんなも変にジャンルとかに限定されることなく楽しんじゃって欲しい。昔は“ラウド・バンド”とかってイキがって、前に出ていかなきゃみたいな気持ちがあったけど、今はそれを超えて、いい意味どうでもいいやと思ってて」と語り、Jに対し、「次回も是非誘ってください」と直訴している。Jは「次はP.T.Pが5DAYSをやればいいんだよ」と笑いつつもそれを受け入れているが、残念ながらその約束が果たされることはなかった。ご存知の通りKは、その翌年末に急逝している。
ステージを去る間際のJはいつも言う。「次に会うときまで、絶対にくたばるんじゃねえぞ!」と。それはオーディエンスばかりではなく、すべての同志たちに向けられた言葉だ。そしてこの5DAYS公演に限らず、ライヴ・ステージに臨む際の彼は、先に天に召されてしまった者たちも含めたさまざまな仲間たちの想いを背負っているのだ。
2014年11月、赤坂BLITZへと舞台を移して開催される、通算五回目の5DAYS公演。あなたの想いも、そこに思いきりぶつけてほしい。何にも邪魔されず、何にも躊躇することなく。